小野田長左衛門は、明治10年(1877)7月、実泰の長男として生まれました。
長左衛門の生まれた山之口の麓・六十田地区は、水量豊かな東岳川流域にありますが、大地上にある田畑は、水を手に入れることが大変難しく、雨が少ないときには飲み水にも苦労する状況でした。そんな状況を見かねた長左衛門は、農業用水路をつくることを決心しました。しかし、川の水を利用する権利を得るのにたいへん苦労し、県庁に十数回も足を運びました。その県庁に行く費用もすべて長左衛門が自分で出しました。



 明治38年になって、ようやく用水路の工事を始めました。東岳川と野々宇都川が合流するところに取水口をつくり、山すそに溝を掘っていきました。しかし、岩石などが多くて工事はなかなか進まず、資金も足りなくなりました。そこで、長左衛門は私財(個人の財産)を売りながら工事を続け、約7年をかけて、ついに一本松まで用水路を完成させました。しかし、せっかくつくった用水路も台風や大雨のたびに壊れ、長左衛門はその後も用水路の補修に追われました。
 大正7年(1918)〜翌8年にかけて、長左衛門は轟ダムの工事で余ったコンクリートを手に入れ、溝全域の水漏れを防ぐ工事を行い、水量の増加を図りました。
また、長左衛門は、昭和8年(1933)2月には六十田地区の水路工事を始めています。


 長左衛門が苦労した工事の跡は、岩盤をくり貫いたトンネル水路や石積水路橋などで現在も見ることができます。
 長左衛門は、昭和22年(1947)6月に71歳でなくなりました。このとき子孫に残されたものは、脇息(ひじかけ)がひとつだけだったといわれています。このように長左衛門は水路工事にすべての財産をつぎ込み、地区の人々に貢献しました。
 地区の人々は、長左衛門の幼名「五左衛門」をもじって「ごぜどんのみぞ(略して、ごぜみぞ)」とこの水路を呼び、長左衛門への感謝と水の大切さを後世に語り伝えています。

『都城の歴史と人物』より
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